2016年7月22日金曜日

私を元気にするためのご飯 29+27days

なんだか元気が出ないな、
なんていう時、
さらには、
だいたい元気ってなんなんだ、
人は常に元気じゃなきゃならないのか、
いや、
そんなことない、
そんなことあるはずない!
そう、たまには、しゅんとしててもいいじゃない、
なんていうふうに考えている時、
だいたい、本当に元気がないわけじなくて、
単にお腹が減っていたりする。

元気っていう漢字は、
なんだか面白い。
気の元、ってことなんだなあ。

そんな元気は、
生きてれば、
確実にすり減っているわけで、
それはどうしようもない現実。

元気が湧いてくるのは、
アンパンマンが顔変えた時ぐらいだろうね。

それで、結局、
自分の元気は、自分が守ってあげなきゃ、
誰が守ってくれるの?
大人と呼ばれる年齢になって思うのは、
自分で自分を元気にしてあげなきゃならない時が、
本当に沢山あるんだよな、
なんてことだったりする。

なんだか元気が出ない時、
どんな洋服も似合わないような気がしたり、
どんな本も面白いと思えなくて積読が増えたり、
黄昏時が悲しくなったり、
メランコリックになったり、
とにかく横になることばかり考えたり、
憂鬱の渦が、
否応なしに引きずりこもうとする。

ああ、どうやって立ち上がればいいのかしら、
なんて、
出窓の窓辺で両肘ついて、
下界を見下ろして悲観するお姫様ではいられない。

だいたい
ご飯を食べれば、
少なくとも空腹からくる悲しみには耐えられる。
でも、はたと、思う。
私は、たったそれだけの元気が欲しいわけじゃない。
私は、この現実と戦う、
とまでいかなくても、
この現実を直視して生きるだけの力が欲しい。

私を元気にするご飯は、
単なるガソリン代わりのご飯じゃダメなのだ。
私を元気にするためのご飯。
有機野菜やなんやかやも美味しいけど、
やっぱり、


肉と炭水化物。

2016年7月20日水曜日

言ってもらいたい言葉 29+25days

高校生の頃、好きだった男の子、
いまでも時より連絡を取り合ったりしている。
友達、というには、なんだか微妙な距離感なのだけれども、
それでもなんとなく交流を続けている。

そんな彼に、
高校時代からずっと誕生日には、
必ずおめでとうとメッセージを送っている。
年に一度、
彼の誕生日の日には、
他愛もないメッセージを交換するのが慣例になっている。
彼にとっては、少々迷惑かもしれない。
そう思いながらも、
もうそれが10年以上続いている。

わたしの誕生日は6月で、
かれの誕生日は9月。

私が、いまでも彼に誕生日のメッセージを送るのは、
ちょっとした意地みたいなところもあって、
彼と出会ってから幾度も私の誕生日はやって来たというのに、
彼から一度も、おめでとう、というメッセージをもらったことがないのだ。
いつも、自分の誕生日を過ぎて、
ああ、今年もなんもなかったな、
なんてほんの少しセンチメンタルな気分になったり。
なんだか、ちょっと意地悪な気持ちもあったりして、
9月にはさりげなくメッセージを送っている。
子供っぽいな、なんて思ったりもするけれども。
一度くらいは、
おめでとうって言ってもらいたい。

一度くらいは、
彼から連絡がほしい。
高校生の頃、大学生の頃みたいに、
久しぶりにどうでもいいメールのやり取りを、
だらだらとしたい。

お互い、そんなことをする余裕なんて、
私にも、ましてや彼にはないのだろうけど、
たまに、そんな気持ちが去来する。

今でも好きとか、
それはなんだかちょっと違う、
こういうのもある意味未練とでもいうのだろうか、
それならそれでもいいのだけれども、
好きといってしまった過去が、
私たちの関係性を決めてしまっていて、
私たちは、
どんくらい時が経ったら、
普通の友達になれるんだろうか。
それとも、
こんなに色々考えながらやり取りしているのは、
私の方だけなんだろうか。

異性の友達って、
成立するんだろうか。

2016年7月19日火曜日

なんもかんもがつまらない 29+24days

何もかんもがつまらなく感じてしまう時が、
ひょいとやって来るときがあって、
そういうときは、どうすればいいのだろうか。
わたしの気概がぐるぐると体のなかで渦巻いていて、
もうずっと長い間、不完全燃焼が続いているような、
そんなムードが部屋中に充満していて、
湿気でじめじめしているみたいに気持ち悪い。
なにかやりたい気持ちはあるのに、
なにかてをつけてみても、なにもかもが、つまらない。
自分の心が止まってしまっているんだろうな。
そういう時は、布団のなかでじっとしてみるんだけど、
それはそれでぱっとしなかったりするもんで、
夏の夜は、
どうしてこんなにも長いんだろうか。

2016年7月15日金曜日

性格が悪い、いや、歪んでる。 29+20days

自分以外の人たちは、
きっと私より性格がいいんじゃないかと、
思っている。

私の周りにいる人たちは、
いろんな種類があるけれども、
みんなそれぞれに性格がいい。

優しかったり、
正しかったり、
面白かったり、
誠実だったり、

みんなそれぞれに性格がいい。
私は、きっと八方美人なほうで、
みんなにいい顔をしたいから、
それなりに装ってはいるけれども、
本当の本当は、
あんまり性格が良くない。

被害妄想はしょっちゅうだし、
見下したり卑下したり、
ああ、人として、そういうのどうなんだろうね。
でも、そういうのは、一切顔に出さない。
損したくないから。

損得で、物を考えるあたりが、
性格が良くない。
でも、そういうことは言ったりしない。
やっぱり、
損したくないから。

私は、そういうことに関しては、
自分の外に漏らしたくないから、
漏らし出さないために笑ってみたりする。

そんなに演技が上手いほうでもないし、
ポーカーフェイスというほどでもないけど、
人の迷惑を顧みず、
泣いたり笑ったりしたのは、
かなり昔のことで、
それは、確か、
失恋をしたときに、
大泣きして、
近所の友達の家に深夜に押しかけて、
ドン引きされたのが最後だと思う。
そして、
今も昔もそういうことをする人間にはみられない。

私って人と会話するとき、
どれくらい自分のことを話しているだろうか。
本当は、事実や伝聞をなんとなく話してるに過ぎなくて、
心の奥底の本当のことは、
あんまり話したことがない気がする。

わざとではなくて、
昔からそういう子で、
子供の頃、
本当に欲しい物を言えなくて、
不本意な誕生日やクリスマスのプレゼントを幾度ももらった。
一番不本意だったのは、
小学校4年生くらいのときにもらった、
謎の図鑑セット。
私は、もっと可愛いものが欲しかった。

最終的に、
それは自由研究の宿題に役に立ったからいいのだけど、
もらったときの負の衝撃はでかかった。

親に遠慮する子供だった。
今思うと可愛くない。
素直におねだりすればよかったのに。
子供らしく駄々をこねればよかったのだ。

そう思ってから、
心の中におねだりリストを作って置いている。
聞かれたらすぐ答えられるように、
価格帯、相手別に想定している。
例えば、
付き合ったばかりの彼氏からもらう初めての誕生日プレゼントは、
ルクルーゼの18センチのライムグリーンの鍋、
といった感じに。

心底思う、最悪だ。
言葉にしてみて、なんかもう、本当に、
性格が悪いというか、ひねくれている。

私は、いつも思っている。
せめて、もっと素直な性格になれたなら、と。
素直に喜んだり、
素直に話ができたらいいのに、と。

大学生の時、
友達の誕生日をサプライズでお祝いしたことがあった。
主役の友達が、嬉しくて泣いているのをみて、
すごく羨ましかった。
ああいう風になりたいと、
それ以来ずっと思っているけど、
一向になれない。

私が泣くのは、
映画を見たときや、
一人カラオケで中島みゆきを歌うとき、
小説なんかを読んだときくらいだ。
あと、自分のお葬式を想像したときとか。

なんか、荒んでいる。

みんな、それぞれに性格がいい。
私の性格の良さは嘘っぱちで、
それが、今日はなんだか無性に虚しい。

他人を羨ましいと思う心を、

「人は人、私は私」

なんていう甘い言葉で済ませたくない。
羨ましいと思うのは、
まぎれもなく自分なんだって、
それを認めるくらいには、いい性格でいたい。




2016年7月14日木曜日

似合わない女 29+19days

自転車で職場に向かっていた。
長くて急な坂道を下ると、
べたっとした風が吹いた。

急な坂と急な階段が、
大きな道路と道路を繋いでて、
そこに新しい家と古い家が、
ぎゅうぎゅうに建てられている。
坂の上からは、
遠くに大きなイオンとか新しい高層マンションとかが見えて、
坂の途中に綺麗な校舎の学校がある。

夕暮れ時、
子連れのお母さんやおばちゃんたちが、
そこかしこで井戸端会議をする。

私の田舎は車社会で、
多分そのせいで、
道端でおしゃべりする習慣があまり根付いてなくて、
むしろそういうのは、
ヤンキーがするものだと思っているくらいで、
なんだか見慣れない。

私はスーツを着て自転車を漕ぐ。
こんな格好で自転車に乗るなんて、
18歳までの私なら想像もできない。
風が前髪を揺らして、悪くない気分。

ここでは、自転車が便利で、
自転車があれば事足りたりする。
私の地元は車がないとどこにもいけなくて、
でも、車があればどこにでも行ける。

私は、自転車を漕ぎながら、
そして、
下り坂でゆるくブレーキを掛けながら、
つくづく思う。

私はこの町に似合っていない。

私だけが、
この地域に根ざせていなくて、
私だけが、
この地域に愛着がないような。

ここに住んでいる人は、
きっとみんな、
ここでの生活、ここでのライフスタイルが、
そこそこ気に入っているんだろうなとか、
満足しているんだろうなとか、
そんなふうに思い込んでいる私にとって、
この町での生活をあまり愛せない私は、
なんだか申し訳ない気持ちになる。

これは、野心とかの問題じゃなくて、
もっと他にいいところがあるんじゃないか、
とか、そういう自分探しに近い問題でもなくて、
じゃあ、この心許なさはなんだろうか。

地元での生活が好きだったわけではない。
それしか知らなかっただけだ。
上京して、何度か引越しもした。
どの町も、好きな部分もあったけど、
この町は、私の生活の全てではない、
といつも思っていた。

もしも、家を買うなら、
と想像するとき、
掛かるお金のことばかりを考えてしまうのだけど、
結局、誰とどんな風に暮らすのか決めないことには、
家は買えないということに気づいたりする。
1人で、一生を過ごすならば、
私はどこに行くのだろうか。
1人で生きる覚悟ができないと、
それすら決められない。

生きる場所は、
生き方が反映される。

私がこの町に似合わないのは、
この町なりの暮らしが、
私には似合っていないからなのだろう。

きっと、そう遠くはないいつか、
私はまた引越しをするだろう。
そのとき、私は、
何を基準に住む場所を決めるのだろう。
私はその場所を、
そして、そこでの生活を愛せるだろうか。




根無し草って、
いい表現だなあ、と思う。
誰かこの根無し草を捕まえてはくれないだろうか。








2016年7月5日火曜日

突然の雨 29+9days

先週末、田舎から母が上京してきて、
今朝まで一緒に過ごした。

私は、こんな一文を書くような大人になるとは思っていなかったけれども、
実際に、こんな一文がすらすらと出てくるくらいに、
東京的な生活に馴染んでいるし、
もっといえば、
「お盆にはそっちに帰るから」
という言葉も自然と言うことができるくらいの頻度でしか帰っていない。

母がくると、憂鬱が半分と楽しいが半分で、
母が泊まる夜は、ぐっすり眠れたことがない。
そして、母が帰った後、泥のように眠る。

実家に帰った時は、
自分の部屋では気持ち良く眠ることができるんだけど、
昼間はなんだか居心地が悪い。
それで、いつも街中をふらふらとして過ごすのだけれども、
小さな町なので、誰かのお母さんに見られたりなんかして、
ちょっとだけ体裁が悪いような、
なにか言い訳したいような気持ちになる。
両親と過ごすにはたまに帰った時に、
でかいイオンにでも遊びに行くくらいがちょうどいい。

いつの間にか、
地元にはかえることはないだろう、
という選択肢が自分の中で確固たるものになっていて、
ふと、そんな自分のことを思うと、
ちょっとだけ薄情者みたいに思えてしまう。

さて、そんな調子で、7月が始まってゆき、
きっと、あっという間なんだろうなあ。

2016年6月29日水曜日

実感がない、アラサー 29+4days

先日、誕生日を迎えたばかりなのだが、
いかんせん年齢について実感するような出来事がないのであって、
なんだか、なんにも変わっていない。

でも、たいてい年齢っていうのは徐々に徐々に効いてくるもので、
そのうち、痛てて、なんて思う日が来るはずだ。
そしてそれは、もう、
果てしなく果てしなく鈍痛であって、
にぶーく痛み続ける。

私は、いわゆるアラサーという年齢であって、
そういう女性の一括りの中にはいっている。
アラサーと一括りに言われるけれども、
本当は、その年、その年で全くもって、
心持ちが違う。
そう、私たちは、思春期くらいには、
お年頃であるのだ。

お肌の曲がり角をゆるーいカーブで曲がりながら、
先の見えない毎日を送っていくこの漠然とした不安や焦りは、
日々日々更新されていく。

いっそ、直角に曲れれば良いのだ。
曲がった瞬間に新たな景色が、一挙に広がるみたいな。
ゆるーい曲がり角を曲がりながら見る景色は緩やかにしか変わっていかないし、
先の景色が見えそうで見えない。

アラサーという言葉に、
一括りにされたくないけれども、
されないだけの何かがないし、
アラサー女性という表現に、
どこか納得しなくもない。
まだ20代だけれども、
30歳の方が、20歳より近いんであって、
アラサーと言われて当然でもある。

しかし、
30歳の女性からみたら、
29歳の女性はやっぱり全く違ってみえたりするもんかもしれない。

年齢は、単に生きた年月を表すもので、
本当は、その数字自体にはそれ以上の意味はないんだと思う。
たとえば、そこに至るまでの経験や生き方の方がずっと意味や価値があるだろう。

アラサーっていう言葉は、
もしかしたら、年齢それ自体じゃなくて、
モチベーションの問題であり、
生きてきた時代考証の結果みたいなものなのかしら、
なんて、考えてみる。

アラサーやアラフォー、
そういった言葉には、
単にその年代を指す以上の意味が、
どこか無意識に含まれていて、
結局のところ、
私はその意味に含まれたくないのかもしれない。

まあ、いまのところ、
アラサーも悪くない。

2016年6月26日日曜日

29

1年ぶりの誕生日がやってきて、
忙しく楽しく過ごしたけど、
特に何も変わったことはなく、
やっぱり私は、
まだ何者でもなくて、
けれども、
これからなにかになれる可能性は、
相変わらず、ちゃんとあって、
私は私で良かった。

2016年6月24日金曜日

サザンクロスを探して 29-1days

プラネタリウムに行ってきた。
久しぶりのプラネタリウム、
そして、久しぶりに星を見上げた。
あれは、偽物の星だけど、
本物みたいに綺麗だった。

なんでも、本物の方がいいに決まっている、
と、ずっと思っていた。
だから、私は、いつも本物の自分でいたいとおもっていたし、
これからも、本物の私でいるつもりだ。
けれども、たまに、偽物のなにかもいいもんだよなって思う。

よく、
本物のオーロラを見てみたいんですよ~
なんていう人がいるけれども、
あれって、どれくらい本気なんだろうか。
そして、どれくらいの人が行動に移しているんだろうか。
テレビで見たのか、
写真で見たのか、
ネットでみたのか、

オーロラをみたい多くの人は、
プラネタリウムでオーロラを見たことがあるでしょうか。
わたしは、今日、初めて360°自分の上から、
カーテンがひらめくように降ってくるオーロラの偽物を見た。
幻想的で美しかった。
夢見てるみたいだった。
これは、嘘だとわかっている。
騙されていい気持ちになって、
けれども、それも悪くない。
それで、私は満足だ。

実際のオーロラはいかほどに美しいんだろうか。
そうも思うけれども、
それを見に行くだけの気力は、
今の私にはない。

プラネタリウムの半球のなかで、
私の真上に輝く星星は、
所詮偽物の光にすぎない。
降るようなこの満天の星空を私は、
この人生の中で、
プラネタリウム以外で見ることができるのだろうか。
この降り注ぐ光の中にいる時の感動は、
本物の星空を見た時の感動とは、
全く別物だろう。
けれども、
それを見ている時の自分の心は、何一つ嘘じゃない。
そして、
星の光ではないけど、
この気持ちの良い光は、
光であることは、確かで、
今、この瞬間、
何も偽物ではなかったりする。

偽物の中にも、
その瞬間、瞬間、
そのすべてが嘘っこであるわけではないんだよな。
いつも、本物の何者かになりたいと思っていた。
けれども、何者かにならなくったって、
例え、偽物だと思いたい何者かであっても、
生きている、いま、この瞬間、
私はただ、わたしでしかないんだよな。
何者にもなれてない自分に、
いつも私は嫌気がさすけど、
生きている、この流れゆく時間は、
ただただ本物でしかないんだよな。

うろ覚えなのだけれど、
プラネタリウムで説明されていたサザンクロス。
南十字星は、
永遠に南にある訳では無いらしい。
星空は、私たちの目にはなかなかわからないのだけれど、
少しずつ、けれども、確実に変化し続けているらしい。
その結果、
南十字星は、ほんの少しずつ移動しているらしい。
いつか誰かが航海する時、
南十字星ではない別の明るい星を南の目印にするようになるらしい。
それがいつかは忘れてしまった。
近い未来の話なのか、
遠い未来の話なのか、
それはわからない。
けれども着実に、
南十字星は、南から動いているらしい。。

日々の変化の中に生きていて、
常にその中で目指すべきところを探している。
自分も周りも否応なしに押し流され、とどめられ、
失敗と成功を繰り返し、
変わり続ける中で生きている。
サザンクロスは確かな目印みたいなもの。
サザンクロスが動いても、
私はいつでも、そんなサザンクロスを追いかけている。
そうすれば、なんとなくだけど、
自分と思ったのとは多少違う場所かもしれないけれども、
しっくりくるところに落ちけるように思っている。
それがどこかは、サザンクロスしか知らない。

私は、まだまだ航海中。



2016年6月23日木曜日

理想の大人 29-2days

私が思い描いていた理想の大人ってなんだろう。
すっかり、私は忘れてしまった。

よく歌の歌詞なんかで、
「理想の大人とはかけ離れているけど」
とか
「理想の大人にはなれていないけど」
なんていう言葉があるけど、
私は、
この歌詞の意味を実感をもって味わいつくしたことは一度もない、
ような気がする。

大人の境目、
大人と子供の境界線、
そういうのが、
自分の中でとても曖昧だということを、
なんとはなしに、日々の中で感じる。
私は、
子供ではないけれど、
大人でもない、
いつもそんな宙ぶらりん。

理想の大人ってなんだろう。
こんな人間になりたい、
こんな人でありたい、
そういう願望はあっても、
それって、別に大人に限ったことではない。

理想の大人像が私の中には欠如していて、
それって、私だけなんだろうか。

多くの人たちは、
「理想の大人」という言葉に、
どんなイメージを重ねているんだろうか。

2016年6月22日水曜日

占って占って、それから、深夜のラーメン 29-4days

この季節になると、
本屋さんに下半期の占い特集の雑誌が並ぶ。
私は、女性雑誌の占い特集を中心に、
ついつい買いあさってしまう。

ファッション雑誌を買う時は、
中身をかなり吟味して買うようにしているのに、
「下半期の占い大特集」
「運命の切り開き方」
なんていうフレーズに心踊らされ、
ついつい買ってしまうのである。
半年に一度、女性誌がこぞって占い特集を出すのは、
こういう購読者がたくさんいるからにちがいない。

私は、占いの言葉が好きだ。
他にはない、独特の文法があって、
優しくて落ち着いていたり、
元気で明るかったり、
占いにしかない言葉がたくさんある。
おそらく私は、
文学としての占いが好きなんだろう。

ついでに、
ファッション雑誌を買う時、
内容が良くてもその月の星座占いで、
あんまりいいことが書かれていないとかなり凹むので、
本当に、買おうか迷って迷って、
結局買わない。
その雑誌の表紙をみただけで、
バッドデイのことを思い出してしまうから。

同じような理由で、
朝の情報番組やなんかで流れる占いが嫌いだ。

何気なく見てしまって、
たまたま10位以下くらいだった時のショックから立ち上がるには、
相当のエネルギーが必要だから。

とりあえず、
午前中は、そのショックを引きずってしまう自分がいて、
さらに、そんな自分を不甲斐なく思う自分がいて、
そして、徐々に、そんな自分全体に、
ほとほと嫌気がさしてしまうのである。

まあ、たいていお昼ご飯を食べると元気になるのだが、
ここで、お昼ご飯が美味しくなかった場合が、本当の悲劇だ。

占い特集の場合も、
あんまりにも嫌な言葉ばかりだと買わない。
結局、活字の占いっていうのは、
その占い師の占いの能力によるものではなくて、
文章の機微によって、良し悪しが左右されるのである。
好き好んで、嫌な言葉を手元に置いておく人はいないだろう。
自分のそばには、
自分の心を良い方向に持って行ってくれる言葉があった方が、
誰だって気分がいいだろうし。

占いに行ってもそうなんだけれども、
結局のところ、
私は、幸せになりたいんであって、
このままじゃ(いろいろな要因があるにしろ)
幸せになれないんじゃないか、という不安を、
なんとかしてかき消したい、
という、たったそれだけのエゴなんだと思う。

「占いで決める」のはいいけれども、
「占いに決められる」のはいやなのだ。

占いに何かを決めてほしいと思ってしまうのは、
自分で決めるエネルギー不足のサインかもしれない、
とも思う。

自分の意思で何かを決められなくなったら、
人生は途端につまらなくなる。

決断・決定の理由を自分以外のどこかに見つけたくなる。
それは占いかもしれない。
それは宗教かもしれない、
それは家族、血のつながりかもしれない。

自分のせいにすることから逃げること、
それが、信仰のある一側面なのかもしれないし、
あるいは、
家族や血のつながりの呪縛かもしれない、
なんていうことを、
たまに思う。

私自身、母の思い通りになりたくなくて、
いつからか、
両親が望むものを選択しなくなっていった。
そうすることが、
自分の意思で人生を決めているという実感につながることもあった。

結局、意地を張っている部分もあるのだけれども、
誰かのために生きているという感覚がどこかにあると、
ふとした時にしんどくなりそうで怖いと感じている。

最近では、
母のいう事も少しは参照するようになったけれども、
まだ、意固地になることは多々ある。

今日も、仕事帰り、母と電話で話して、
「まっすぐ家帰って、家でご飯を食べるべき(=ちゃんと自炊しろ)」
という、
わたしの身の安全と健康と金銭の為の
優しいアドバイスを無視して、
深夜にラーメンを食べて帰宅した。
完全なる意地だ。

(結局、わたしは、母親のいうことを聞くのが嫌なんだろう。
これでは、ただの反抗期ではないか。)

スピリチュアルなこと、不思議な体験は大好きだけれども、
結局のところ、私にとって、それらは、娯楽でしかないのだよな。

2016年6月21日火曜日

結びつきたい、結ばれたい 29-5days

夏至の満月のことをストロベリームーンというらしい。
好きな人と結ばれるそうです。
この世のどれくらいの人が、
誰かと結びつきたいと思っているんだろうか。

髪の毛が、
広がりに広がって、
首の後ろんとこにべったりとくっついたりなんて、
鬱陶しくなってしまって、
襟足をだいぶ切り落としてきた。
すっきりして、
長かった時より、
フェミニンなフォルムになって、
結構気に入っている。
しかし、中途半端に残っているパーマをどうしたらいいのか、
これは、パーマが落ちるまでまでまてばよいのだろうか、
もう一度新たにパーマあてたらいいんだろうか。
時間が解決してくれることだろうか。

デートの予定があるとそれだけで、
嬉しくなってしまう。
この髪型でいったらどう思われるかな。
最近、オフショルのトップスが流行っているけど、
ああいうのってどうなんだろう。
二の腕が気になる今日この頃。
ノースブーリーはなしだろうか。

それにしても、
夏のような天気。
しとしととした長雨はふらないのかな。
洗濯物が乾くのが早いのは嬉しいけど、
紫外線はいやだな。

2016年6月19日日曜日

じいじはこれから地下鉄で帰ります。 29-6days

いつか子供ができたら、
そういう妄想がいくつも去来する。
いつか子供ができたら、
本屋さんや図書館にたくさん連れて行きたい。
本をたくさん読ませてあげたい、
まだ見ぬ我が子。
宇宙のどこにも、
可能性としてしか存在しない我が子への親心。

スーパーに行くついでに本屋さんに寄ったら、
ずっと探していた本が何冊かあって、
中をペラペラ見て2冊の本を買ってきた。

本屋さんには、親子連れがいて、
それにおじいちゃんも加わって、
あちこちのコーナーを歩き回っていた。
まだ小学生くらいの女の子と男の子、
年中さんくらいの男の子と母親とおじいちゃん。

女の子がおじいちゃんを連れて、
本屋中を連れ回し、
気に入った本を買ってもらっていた。
なんだか微笑ましく、
そういえば私は、
祖父母と本屋に行ったことなどなかったなあ、
と、ちょっと寂しく思ったけれども、
両親はことあるごとに連れて行ってくれたから、
それでよかったのかもな、
と、レジで本のお金を払いながら思った。

本屋さんから出たところで、
さっきの家族の一番小さな男の子が、
大きく手を振り、
「じいじ、ご飯、ごちそうさま!
また、一緒にご飯食べようね!
じいじ、またね!!!!」
と元気の良い声でいっていた。

じいじは、かすかに手を振って、
地下鉄の駅へと潜っていった。
それが、なんだかグッときて、
どこか切なくて、泣きそうになりながら、
私は、親子の横を通ってスーパーへと向かった。

みんなでご飯を食べて、
帰りに本屋さんに寄ったのだろう。

じいじだけ別の場所に向かって、
ひとりで地下鉄にゆられてゆくのだろう。
じいじのことを待っている人は、
どこかにいるんだろうか、
なんて思うと、また少しさみしい気持ちになった。
そして、少年の言った「またね」は、
本当に、やってくるのか、
なんて思うと、またまた少しさみしい気持ちになった。

こうやって、少しずつ、
さみしいや切ないが積み重なって、
心が藍色になってしまう。
藍色の心で、スーパーにいって、
一人分の買い物をすると、
なんだか投げやりな気持ちになりそうだったので、
来月、久しぶりにデートする相手と、
食事だけで済まなかった場合のシミュレーションをした。
ちょっと心持ち、上がった。

私の祖父は、二人とも、
私がそれなりに大きくなってから亡くなった。
父方の祖父とは18まで一緒に住んでいたけれども、
亡くなった時、私は24くらいだった。
田舎から出てきて、
東京での生活は、嫌なこともたくさんあったけど、
いつも新しいことであふれていて楽しくて、
実家に帰省しても東京での生活のことばかり考えていた。
それはきっと、当たり前のことだと思っていたけれども、
祖父が死んだ時、
私は、
自分が浦島太郎になったような気分になったのをよく覚えている。
死ぬ半年前、
入院している祖父を見た時、
痩せこけ自分が誰かもわからず、
チューブで繋がれた姿は、
受け入れがたいものがあった。
実家にいる両親と祖母は、
私が東京でちゃらちゃらとしていた時、
あの港町で、日々、祖父のことと向き合っていたのだと、
思うと、私は不孝者だと思わずにいられなかった。

ことにつけ、
母は、私に、
あなたの人生なんだから、
あなたが思うように生きなさい、
あなたがやりたいと思ったことは、
何があってもやりなさい、
といいきかせる。
父も、そんな風に思ってくれているようだ。
こんな両親のために、
私はきちんと孝行したいけれども、
両親が私にしてくれたことの多さを思うと、
私は、この人生をかけても、
すべての恩返しなんてできない。
だから、せめて、
私は、
私がやりたいことをして生きていこうと思うのだ。

今、実家には両親と祖母が住んでいる。
祖母は認知症が進んで、
日々、目の前のことを忘れてゆく日々だ。
私の知らない大変なことがたくさんあるんだろうけど、
だからといって、私が飛んでいってもどうにもならない。
母の愚痴を聞くくらいしかできないけれども、
少しでも孝行したい。
元気に生きていることが一番の孝行とかそういうことかもしれないけれども。

じいじが地下鉄の駅に降りていく背中を見て、
ふと、そんなことなどを考えて、
感傷的になった私は、
今日も東京で頑張っています。

2016年6月18日土曜日

暑い日の過ごし方 29-7days

暑い1日だそうだ。
予定を1個減らして、
別の予定をいれる。

とりあえず、今日は、
優しい先生のいる病院に行くことにした。
なかなか治らないことに、
どうにも気が滅入ってしまっているのだけれど、
優しい先生っていうのは、
別にいい先生ってわけじゃないことの皮肉でもあるんだが、
どこに行っても、
きっと同じような治療をされることは、
つまりは、薬を出されるだけなんだけど、
わかっている中で、
優しい先生は、
特別外来がある病院を教えてくれて、
お手紙を書いてくれた。
そこの外来はなかなか予約が取れなくて、
やはり、
同じような悩みの人がたくさんいるのだなあと思ったけど、
そんなこと、
何の気休めにもならない。
同じような症状の人が何人いようと、
辛いのは、
唯今、この瞬間、この体なのであって、
人は弱ると、
とんでもなく自己中心的になってしまう。
優しい先生にやっと取れた予約が、
1ヶ月以上も先だと言うと、
1ヶ月は、長いね、辛いね
と言っていた。
そうだよ、つらいよ。
命にかかわらないけど、
私の生活をかなり縛るものだから、
イライラするし、
気持ちがよわっていくよ。
しゅんとして、
抗生物質と漢方薬をもらいに薬局へ行くと、
優しいおじさん(薬剤師)が、
ずっと調子が良くないみたいだね、
今、きちんと治しておかないとね!
と、元気に励ましてくれて、
はい、
と小さい声で返事してきた。
おじさんの元気の半分がほしい。

と、かなり弱った気持ちのまま、
バスに乗って、
ショッピングモールに行ったら、
とにかく可愛いものや素敵なものがたくさんこの世に溢れている素晴らしさ、
かなりテンション上がって元気が出てきた。
病人ぶってた自分が、
甚だ恥ずかしい。
ルンルンと、
パジャマを購入。
幸せだ!
明日は、このパジャマを着て、
一日中本でも読んで過ごしたい。

これから、
後輩カップルのお宅訪問。
楽しみだなあ。
プレゼント、喜んでもらえるだろうか。

そういえば、
昨日、
大好きな安住紳一郎アナウンサーをテレビで見てたんだけど、
二週連続で泣き顔を見た。
情緒不安定なんだろうか。
そういうお年頃でしょうか。

2016年6月17日金曜日

与えるばかり1 29-8days

結婚適齢期が、軽々と通り過ぎようとする日々。
今日は、特別日差しが眩しく感じる。
友達の出産祝いに行く。

まだ、首が座ったばかりなの、
ということなので、
抱いてみる?なんて聞かれても、
なんだかソワソワして、
うまく首を縦に振れない。
そして、私は、そっと心の中で呟く、
「ねえ、私なんかに抱かれたい?」

普通に生活してても、そんなに赤ちゃんに触れることなんてないんであって、
とてもとてもドキドキしてしまう。
でも!
赤ちゃんのふにふにとした体はとても魅力的であって、
触れたくて仕方ない。
それだけで、生命ってすごいなあ、
とか思ってしまうんである。

最近、立て続けにお祝い事があって、
私は、プレゼントマイスターになる勢いで、
色々な贈り物を買っている。
明日は、後輩の結婚祝い。
父の日と、父の誕生日、
父にプレゼントを買う。
その前には、友達夫婦へ新築祝いを買った。

贈り物には、
必ずメッセージをつける。
ものだけだとなんだか味気なくて。
喜んでもらえると嬉しくて、
何の気なしに送っているのだけど、
相手によっては、
迷惑だったりするんだろうか。
気を重くさせたり、
変な義務感を与えたりしてるんだろうか。
そんなつもりは毛頭ないのだから、
そうだとしたら、
とにかく、
悲しい。

独身で、
彼氏もいなくて、
独身の友達も少ない、
ってなると、
ライフイベントなんてもの、ないも同じだ。
だから、
ふいに何かもらえると飛び上がるほどに嬉しい。

相手の気持ちを推し量るバロメータは、
自分の心でしかなくて、
だから、
贈り物を選ぶ時も、
自分の心から相手の心を推量して選ぶしかない。
だから、
本当に的確に、
いい贈り物が出来ているのか、
と、ふと考え込んでしまう。
けれども、喜んだ顔を信じて、
ああ、あげてよかった、渡して良かったと、
思うようにしている。

迷惑に思われても、
きっと渡さなければ後悔することもあるだろう。
渡して後悔するより、
ずっといいだろう、
なんて思っているのだけど、
プレゼントって、
それで正解なんだろうか。

2016年6月16日木曜日

雨の日だからって憂鬱になる必要はない。29-9days

今年は、除湿機を買ったから、
ジメジメから少し解放されるといいのだけれど、
そんな思いとは裏腹に、
湿度はどんどんと上がっていく毎日なのだから、
やるせない。

梅雨の季節は嫌いじゃない。
むしろ、梅雨よりも、
これからやってくる
太陽が燦々とした季節のほうがずっと憂鬱。
晴れていると、
晴れているというだけで、
晴れの日のテンションにならなければ、
なんていう気持ちになってしまって、
それはそれでしんどいんであって、
雨の日も悪くない。

まだ何度かしか使っていない傘についた雨粒は、
ガラスの粉みたいにキラキラしていて、
まだしばらくは、
この綺麗な雨粒が見られたらいいなあ。
使いすぎると、
だんだん水を弾かなくなってしまって、
それは、
私の肌も同じだということに思い当たり、
さみしい気持ちがやってくる。
シャワーを浴びる度に、
自分の肌の上を水の玉が転がるのを見ると、
少しだけ自信が出てくる。
肌が水を弾かなくなる瞬間、
その境目を、
私はいつか見てしまうんだろうか。
ま、そしたら、浸透したと納得しようか。

私の勝負服はパジャマです。29-10days

私は、特別可愛いわけでもなく、
特別美人、というわけでもない。
けれども、
じゃあ、私はブサイクです、
と言えるほどには開き直れない。

中の中でいられればいいのだけれども、
時と場合によっては、
下の部類になってしまうコンディションの悪さ。

しかしながら、
女には、いくつもの秘策があるわけで、
年を追うごとに使える技も増えてくる。
これのお陰で、
「可愛いは作れる」
まさに、この名言通り、
下から中へと引き上げることくらいはできる。
手間暇かければ、
それなりになれるのである。

女性には、たいてい勝負服というものがある。
仕事であれば、スーツであったり、
あるいは、ハイヒールや下着、ストッキング。
デートの時は、さりげなく相手の好みに寄せてみたり、
あるいは、自分の好みを全面に押し出すような勝負服だってあっていい。

どんなものであれ、
勝負!
と思った時の女の気合はすごいものがある。
これは、ある種のヒエラルキーをも破壊する意欲がある。
下から上の女に、なれる可能性を秘めている。
女の気合の前において、
上中下の分類なんて馬鹿らしい、
という結論さえも与えてしまいたくなる。

私は、似合うものを着ていたい、
といつも思っている。
下着に限っては、
意外性を重視して選ぶのであるが、
外側の鎧は、自然で着心地が良くて、
そしてありのままの自分でいられるような洋服こそが勝負服だと思っている。

仕事の時は、ちょっとむりしてスーツにヒール。
それくらいがちょうどいい。
けれども、なんだか、
背伸びをしているような気分は払拭できない。
常に、自信をもって背筋を伸ばして、
まっすぐ前へと踏み出していく。
そういうことに疲れてしまう。

デートの時は、もっと自然体でいたい。
しかし、この自然体というものが厄介なもので、
自然体でいよういようとするだけで、
どことなくぎこちなくなっていく。

ナチュラル系の服、ゆるふわな格好、
そういったものが自然体を引き出すわけではない。
体型や見た目だけではなくて、
それは、その人の内面だったり、キャリアだったり、
思考によって変わってくるものだから。

シンプルな洋服を着ていても、
人によってまったく違った見え方をするみたいに。
似合う服、というのは、
案外なかなか見つからない。

さて、先日、ついに、
自分の中にあるすべての自然体を引き出してくれる勝負服を、
つまり、
私は、私に似合う服を見つけてしまった。

それは、「至極真っ当なパジャマ」なのであった。
これ以上ないくらいに、
私を引き立たせ、
そして、
5割増しくらいで可愛く見える。
満足な出来だ。

白のパイピングが端という端に施され、
白いボタン、ラベンダー色に白い水玉、
丈も胸元も、本当に素晴らしくちょうど良い。
そして、てろんとした薄手の生地の肌触りが、
とても気持ちよい。
心地いいのだ。

誰かに見て欲しい、
なぜなら、これは勝負服だから。
しかしながら、
パジャマとは、ある意味、特殊な戦闘服であって、
安易に見せびらかすものではない。
私は、このパジャマをきた自分で、
いつか勝負にでるんだろうか。
出れるのだろうか。

パジャマを着て、
私は女同士のマウンティングに参加したいんじゃない。
私は、単純に、好きな人に、可愛いと思ってもらいたい。

そうなのだ。
私は、誰から見ても可愛い女になりたいんじゃなくて、
好きな人から可愛いと思ってもらいたいだけなのである。

たったそれだけなのに、
たったそれだけのことが、
もう驚くべきほど難しい。

どうしてだろう。
好きな人がいなければ、
勝負のしようもない。

一抹の寂しさは、
誰かを好きになれない自分への哀れみに変わりつつある。
私は、また、誰かを好きになって、
恋という面倒臭いことをするんだろうか。
泣いたり笑ったり怒ったり、
感情の渦に身を投げ出せるんだろうか。

私は、今、
勝負パジャマでこのブログを書いている。
私は、
この寂しさを泣きたい。